2015年12月19日土曜日

紀尾井町サロン・コンサート

12月16日の水曜日、午後七時開演。
 金沢から北山吉明ドクターを迎えて、『戦前前後・歌の教室』東京公演を開催、一夕を歌と笑いで楽しく過ごした。ピアノは五味こずえ君。
 曲目そのものは、ことし五月二十日に金沢アートホールで演奏した曲目を東京でも、ということで、そのプログラムに準拠したが、季節柄、最後の一曲は『夏は来ぬ』に代えて『クリスマス』(林 望作詩、伊藤康英作曲)を歌った。
 会場は、まだ新しい小ホール、紀尾井町サロンホール。客席数僅かに80席で、あっという間にチケットは完売となった。
 幸いに、お天気もよく、順調に満席となり、まさに和気あいあいたる空気のなかで、私たちも歌っていてとてもウキウキと楽しい気分を満喫し、聴衆のかたがたからも、まことに楽しかったというお褒めのお言葉を頂戴して、北山ドクターとともに喜んでいるところである。
 目玉曲として、こたび私が作詩し、千住明君が作曲した、慶應義塾横浜初等部の愛唱歌二曲を、初等部に教諭としてお勤めのピアニスト井谷佳代先生の特別出演をお願いして伴奏を弾いていただき、『この丘に』のほうは、二人で男声二部重唱で、『歩いてゆこう』は斉唱で、熱唱した。おかげさまで、これもとても評判がよく、CDとして出ているなら、ぜひ購入したいという人もあった。
 独唱は、北山ドクターは、『待ちぼうけ』『お菓子と娘』の二曲。前者のほうは、ユーモアたっぷりの所作入り熱演、後者は正統的なスタイルで歌われた。私は金沢と同じく、『落葉松』と『くちなし』。心を込めて語りかけるつもりで歌った。『くちなし』を歌っているときに、その歌詩「くちなしの実のように、待ちこがれつつ、ひたすらにこがれ生きよと、父は言う、いまもどこかで父は言う」というところまで来ると、どこかに亡き父の声が聞こえた思いがして、ふと胸にこみ上げるものがあった。そのため、一瞬声が揺れてしまったのは不思議な経験であった。ほんとうに、父の魂が会場まで聞きにきていたかもしれない。
 北山ドクターとのコンサートもこれが三回目。すでに来年の五月十八日には、また金沢で『花よりタンゴ』というタイトルのコンサートを開くことになっている。そこでは、ガルデルなどのタンゴに、私が新しい訳詩を書いた新作を初演する予定である。ぜひご来聴いただきたいと、庶幾うこと然り。

2015年12月10日木曜日

これはうまい!

食いしん坊の私としては、いつも気になっているのは、たとえばお寿司屋さんの賄いってものは、どんな具合になってるのだろう、ということである。そう思うのは私に限らないと見えて、なかには賄いで出していたのを、おいしいので表メニューにしたというような例も仄聞するところ。
 さて、そんな話を、私はいつもわが愛する早稲田の八幡鮨で談論風発していたところ、たとえば寿司ネタを取ったあとに残る鮪の血合などは、しばしば賄いの一品になるということを聞いた。ああ、それはうまそうな、と、根っからの食いしん坊根性が蠢動して、たべたい、たべたいと願っていたところ、
 「ちょうど今日仕入れて、新鮮な血合がでましたから」
 といって、おすそ分けに与った。いや、これはありがたい! さてこそ、感謝感激、もともとこの八幡の鮪はほんとうに素晴らしい一級品ばかりを仕入れてくることがわかっているので、血合だって一級品に決まってるのである。
 そこで、私はこれを持ち帰って、さっそく唐揚げに作ることにした。
 いや、非常に簡単なので、まず、清酒+みりん+減塩醤油を、そうさなあ、2:1:3くらいの割合に合わせ、そこへ、ほんとうにこれは思う存分、たっぷりの卸し生姜をドンといれて、そこへ一口に切った鮪の血合を漬け込むこと、約10分ほど。
 ここから先は、二通りのやり方がある。一つは、そのつけ汁もろともに小麦粉を加えて、比較的重い衣を付けて揚げるやりかた。これはたっぷりの油で揚なくてはならぬ。
 もう一つは、つけ汁から出してバットにでも並べた鮪に、小麦粉(または片栗粉)を打って、薄くまぶしてカリリっと揚げるやりかた。
 今回は、この打ち粉方式で、少量の油でシャロウフライにした。このほうが油の含浸量が少なく、ヘルシーであろうと考えたのだ。
 そして出来上がったのがこれ。色は黒いが、味はごく上品に淡い味である。しかし、醤油と生姜の香りが立っていて、血合の生臭さはほとんど皆無、じつにじつに美味掬すべきものがあった。八幡鮨に感謝!

2015年12月1日火曜日

柿コンポート



 ことしは、例年になく庭の柿が大なりをした。三〇〇個も生ったろうか、枝もたわわに、しかもひとつひとつの実も大きく、かつ甘く、おどろくほどの好成績であった。自分の家ではとうてい食べきれないので、何人かの知人にも配ったりしたが、それでもまだダンボールに一杯残った。このまま置いておけばやがて腐ってしまう。しかし、せっかく柿の木ががんばって恵んでくれた柿を、腐らせては申し訳あるまい。そこで、私はこれをコンポートにして瓶詰めとして保存することにした。
 柿だけでは酸味がないので味が薄い。そこで、おりしも到来していた紅玉りんごをプロセッサで粉砕して混ぜ、なおかつレモン汁と赤ワインもたっぷり加えて煮た。
 そうして熱々のところを瓶詰めにして密封したので、これで当分保存がきく。
 食べてみると、甘味、酸味、そしてちょっとコリコリっとした歯ごたえも楽しく、なんともいえない好風味となった。これを毎朝のトーストに乗せてたべているが、いっぽう、写真のようにヨーグルトを添えてみると、なかなかたのしいデザートにもなる。ぴりっとさせるために黒胡椒をひいてかけてあるが、これがまたデザートとしてはじつにおいしい。
 こんなおいしい甘柿を山のように恵んでくれた柿の木には、ことしはお礼肥えでもやらなくてはなるまいかと思っているところである。

2015年11月26日木曜日

自家製たくあん


 毎年、秋になって、三浦あたりの良い大根が出回るようになると、私の家では決まって沢庵を作る。
 なに、沢庵といっても別になんということはない。
 まずこれを紐で縛って、二階の軒下に吊るし、さよう、10日くらい干しておく。もし雨がふったら室内に取り入れて濡れぬようにしておく、そこがちょっと面倒だ。
 白くつやつやとしていた大根が、晴天10日くらいで、シワシワの沢庵的相貌に変じてくるので、そしたら軒下からおろし、こんどは、糠床に漬ける。
 この糠床は、今年で三十年になる秘蔵愛玩のそれで、大きなタッパーに入れて養っているのである。もとは結婚当初に、母がもう何十年と養っていた糠の一部をもらって種糠としたのをかわいがっていたのだが、一家でイギリスに行ったことで一時断絶、その後また帰国してから母の糠を再度もらって育て、今にいたっている。これを、一年中冷蔵庫のなかで静かに寝かせているのが一つのコツで、現在の自宅は二階に台所があるので、気温が高すぎて室温で糠床を管理するのは特に夏場に難しい。折々に糠を足し、たまった水は抜き、味を増すためにときどきヤクルトなどを投入したり、秋なら庭で生った柿(まったく無農薬)の皮を剥いて混ぜ込んだりする。これでじつに味の良い風味豊かな糠床が育つ。
 この自慢の糠床に干し上げた大根をそっと漬け込んで、それからだいたい二週間ほどで、ちょうどよい頃合いになる。
 なんの色素も加えないのに、写真のような淡い黄色になるから不思議である。味は塩味・甘味・酸味がバランスよく調和し、自然で奥深いまことに好風味となる。この自家製たくあんを食べてしまうと、買ったものはとても口に合わなくなる。大した手間でもないので、毎年そうやってたくあんを作るのが冬場の楽しみである。

2015年11月5日木曜日

忙中閑

この秋は、例年以上に講演などのスケジュールが過密で、もうずっと休みの日とてない状態が続いている。
 さるなかにも、この4日5日の二日間、信濃大町の山荘の冬じまい仕事と、それに僅かな休暇を兼ねて行ってきた。
 あちらでは、いまや紅葉の真っ盛りで、いわゆる綾羅錦繍というべき山河の景色は、まさに筆舌に尽くしがたい美しさであった。
 写真は、大町から糸魚川に向かう、いわゆる糸魚川街道から見た青木湖である。天には碧空、遠景に白雪の北アルプス、中景には紅葉の里山、そして青木湖の碧き湖水、ちかくはまた枯れつつあるススキ。もう此れ以上のお膳立ては考えられないくらいの、「日本の秋」がそこにあった。
 きょう五日は、まっすぐに中央高速から帰らないで、敢えて少し遠回りした。白馬村から長野往還の道筋を取り、九十九折の山岳道路を抜けて、山奥の孤村鬼無里に至る。そこで、名物「いろは堂」のお焼きを土産に買い、ついでに、旅の駅で地元名産の大根なども仕入れた。いろは堂は、すぐ裏手に「いろはな」という洒落たカフェを開いているので、そこで、お焼き生地のドーナツなどたべた。
 さらに往くこと山路を五里、道は下って長野市街に至る。そこで善光寺さんにお参りしてから、あとは高速をひた走って帰ってきた。
 まことに目の保養心の保養になるような忙中の閑日であった。

2015年11月2日月曜日

謹訳平家物語 第二巻刊行

 ながらくお待たせしておりましたが、やっと『謹訳平家物語』の第二巻が店頭に並ぶ運びとなりました。
 第二巻は、原典の巻四から巻六までの三巻を収めています。第一巻は、まだ平家全盛のころのさまざまなエピソードを描き出していましたが、第二巻になると、さしも全盛を誇った平家にも落日の影が忍び寄ります。
 それにしたがって、源三位頼政に主導された反平家の謀反が勃発、これはただちに鎮圧されるに至りますが、しかし、高倉宮がこの謀反に一味して誅殺されます。が、平家の落日を引き戻すことはできず、南都興福寺との間にも戦火が広がり、清盛は業を煮やして福原遷都の奇策に出ます。けれどもこれもうまく行かず、関東の頼朝を中心に各地の源氏が蜂起、一斉に反旗を翻すなかで、英明の君であった高倉上皇も崩御、やがて清盛も熱病によって死ぬ・・・こうして世は騒々しく動きはじめ、次第に平家の落ち目が明らかになっていく・・・というところまでが、この第二巻に語られますが、その戦乱の話のはざまに、小督の局の恋物語など、哀切な名場面、名文のところも次々と現われて、まことに読みでのある一巻です。
 どうぞみなさまぜひ、第一巻につづき、第二巻のご購読を賜りますように。

2015年10月31日土曜日

秋の越後路

一昨日、28日に、新潟県立図書館の創立百周年記念イベントの一環として、同館での講演(源氏物語について話をした)をしてきた。
 27日に関越道・北陸道をまっしぐらに通って新潟入りし、翌日は講演、そうしてもう一泊して、昨日越後路と上州路の秋を満喫しながら、ぶらりぶらりと逍遥しつつ戻ってきた。車の運転がなにより好きな私にとっては、こういうふうに仕事を終えたあと、ひとり気ままにドライブしてあるくのが、なによりの気晴らしなのである。
 越後は、もうすっかり田も刈られて、冬じまいの佇まいであったが、あいにくと天気が悪くて空気がどこも霞んでいたのは、ちょっと残念に思った。
 ところが、越後と上州の国境の長いトンネルを抜けると、そこは別世界で、からりと晴れた秋景色であった。
 あちらのインター、こちらのインターと、しきりに高速から降りて、秋の田園を逍遥してきたが、なかでもこの写真は、月夜野インターで降りてから、当てずっぽうで走り回っているうちに、ふと遭遇した景色である。
 良い景色というのは、「どこ」という特別なところでない、ふつうの道のほとりに見いだされることが多い。だから私は、観光地には行かないし、いわゆる「展望台」なんて場所にはまったく興味もない。
 ちかくの山道には、「熊出没ご注意ください」という張り紙がそこら中に貼ってあって、うっかりしていると熊公に出くわさぬものでもない、と十分注意しながら、秋らしい空気の横溢するところで写真を撮った。
 こういう山村の風景に出会う時、ああ、日本の秋は良いなあ、とつくづく感じるのである。

2015年10月24日土曜日

日比谷カレッジ

一昨日、10月22日の木曜日、毎年恒例となっている、日比谷図書館と上広倫理財団の共催にかかるレクチャーシリーズの一環として、今年は『謹訳平家物語』をめぐってレクチャーをしている。先月は第一回として、平家物語とはなんだろうか、それを現代語に訳すということはどういうことか、という全体を通じての概論的な話をして、その第二回が一昨日の会であった。
 第二回は、翻訳家であり、詩人であり、版画家でもあるというピーター・マクミラン氏をゲストとしてお招きし、おなじく「訳す」ということながら、外国語の翻訳と、古典の現代語訳の異相と共通点などをめぐって話し合った。
 マクミラン氏は、『百人一首』の英訳で世界的に知られる気鋭の翻訳家、というか日本文学研究者であるが、現在はひきつづき『伊勢物語』の英訳に取り組んで、近日中にそれも世にでる運びとなっている由。
 流暢で高雅な日本語を駆使して、和歌におけるレトリックをどのように理解し、どのように英語で表現したら、英米人にもっとも正確に伝わるか、といって、もともとの歌の風韻を殺さぬように、詩人としてのセンスを活かして、あくまでも詩的に訳すには、どうしたらよいか、ということを、いくつかの例歌を俎上に上げて見事に論じられたのは大いに感服したところである。
 そのあと、聴衆には例の如く平家物語の原文(巻三「僧都死去」より)を配布しておいて、私は『謹訳』を朗読し、マクミラン氏はその英訳を、朗々と恰もシェークスピア劇のような韻律性をもって朗読された。これは大変におもしろい試みであったと自負するところである。
 終わってから、また二人して、わが愛してやまない早稲田の八幡鮨の暖簾をくぐり、大いに舌鼓を打った。写真は食後の一コマ。八幡鮨五代目安井栄一君と裕子夫人を交えて。

2015年10月9日金曜日

図書館と書物の薫り

10月の7日、愛媛県松山市の愛媛大学図書館の招きで、講演にでかけた。
 今回は、図書館の招きとあって、古い本の話をした。題目は上記のとおり、
 「図書館と書物の薫り」
 とした。私はもともとまったく本を読まずに少年時代を過ごした、非読書少年であったというところから説き起こして、どのようにそれが、書物を相手とする学問「書誌学」へと志すようになったのかという、その一部始終をお話した。さらに、日本各地の図書館を訪ねて、さまざまの古い本を調査したこと、また、イギリスをはじめとする西欧の図書館を訪ねてのさまざまな経験など、内容は多岐にわたった。
 場内は満席で、しかしその半分ほどは、愛大附属高校の生徒さんたちが特別研修として聴講していたのであった。
 要は、読書というものはただ漫然とたくさん読めばいいというものではなくて、各自が自分のモティヴェイションと興味にしたがって、じっくりと読み、味わい、そしてその書物を手許に置いて愛惜する心から、読書が血肉になっていくのだという趣旨を話した。さらには、古い典籍をじっさいに調査研究してきた経験をお話して、各国の図書館事情に及んだが、私はちょっと勘違いして、90分の講演だと思い、そのように用意していったところが、実は60分の寸法であったので、かなり端折って大急ぎで話した。もう少し時間が欲しかったなあというのが正直な感想である。しかし、生徒さんたちも熱心に聴いてくれたのはありがたいことであった。

彦根城内能舞台講演


 
 去る九月の二十七日、彦根市の招きで、彦根城内博物館に復元されている井伊家の能舞台(これは1800年(寛政12年)に築造されたものだが)で、能についての講演をしてきた。
 観世流の若手気鋭の能楽師、坂真太郎君にも助演を願って、『能舞台の神聖と不思議』と題して、私がまず能舞台という空間はいったいどういう意味を持ったところなのか、ということを概略お話し、つづいて、坂君に登場してもらって、能の所作、道具、謡いかた、音楽的組織、などなど実演を含めていろいろ面白く話してもらった。
 見所は200席ほどの椅子席で、これは博物館において新しく作られたものだが、当日は満席札止めの盛況で、みなさん楽しそうに聴いてくださった。
 この舞台は、御覧のように、橋掛りがほとんど45度の急角度で舞台に接続しているという古い形式をとどめている。しかし、現在はほとんど使われていないそうで、それはいかになんでももったいないなあと思った。せめて月に1回くらいは各流儀の演能でもしてはどうだろうか。

2015年9月15日火曜日

戦前戦後、歌の教室、東京公演


◎おかげさまで、このコンサートのチケットは完売となりました。ありがとうございます。

つづいて、12月16日水曜日に開催いたします、『戦前戦後、歌の教室』東京公演のおしらせです。
 去年から、金沢の外科医にしてテノール歌手という北山吉明ドクターと私と、二人の歌の演奏会をやってきましたが、とくに今年の五月二十日に開催した、『戦前戦後、歌の教室』というコンサートが大変好評で、ぜひ東京でもやってほしいというご希望が寄せられたのに勇気づけられて、えいっと思い切って東京公演を企画しました。二人とも超多忙な毎日を送っていますが、そのなかでも、歌は人生の輝く星、というような思いで、こんどは診療の合間を縫って北山ドクターに東京へおいでいただき(水曜日は休診日なので)おおいに熱唱しようということになりました。曲目は金沢でのそれに準じますが、一部変更があります。『朧月夜』『汽車ポッポ』『蛙の笛』など戦前戦後の懐かしい童謡から、戦時中の軍歌『月月火水木金金』『空の神兵』などを経て、戦後の歌謡曲『憧れのハワイ航路』『山の吊橋』などにいたる歌の近現代史という趣です。そしてまた、戦前戦後の日本歌曲『まちぼうけ』『お菓子と娘』『落葉松』『くちなし』に至る、まさに歌の教室。私共の歌談義を含めてたっぷりと語り、かつ歌いたいと思います。ソロもありデュエットもあり、さまざまです。席はわずかに80席しかありませんので、お早くお申込みください。お申込みは、
 林 望事務所 電話 042-386-3985     FAX 042-386-2428
 北山クリニック 電話 076-263-2400    FAX 076-263-2366
又はメールで
 kikurik@blue.ocn.ne.jp (林 望事務所)
までおねがいします。

タンゴの演奏会へのお誘い

さて、いよいよ夏も終わり、芸術の秋、音楽の秋、であります。
 まずは11月22日の日曜日に、ごらんのようなコンサートをいたします。もともとタンゴ・マドンナは、安田紀生子さん(ヴァイオリン)、賀川ゆう子さん(ソプラノ)、二宮玲子さん(ピアノ・編曲・作曲)の三人が結成した、クラシック音楽のプロたちによるタンゴユニットなのですが、かねて二宮さんとは、オペラ『MABOROSI』での作劇・作曲でご一緒したというご縁もあり、このユニットのレパートリーに日本語の詩を付けてほしいということでお手伝いしたところ、それならついでに歌ってみてはどうかということにもなり、先日、7月18日に、荻窪のサロンで試演ライブをやったところでした。
 その旗上げの本公演が上記のコンサートで、私も二、三曲ヴォーカルでも参加することになっています。今のところ、確実に歌う曲目は、カルロス・ガルデルの『Por Una Cabeza』邦題は『こいつぁだめさ』として、自ら訳した日本語詩で歌います。また、アストル・ピアソラの『リベルタンゴ』にも、日本語の詩をつけ、これは賀川さんとのデュエットで歌うことになっています。現在、他の曲も作詩中で、もう少し曲目が増えるかもしれません。ともあれ、ちょっと都心からは離れていますが、日曜日ですので、郊外散歩かたがた、ぜひ聞きにおいでください。お問い合わせは、
  090-5767-7305 安田さん
  090-5438-7538 賀川さん
 もしくは、当林望事務所までお問い合わせください。

2015年9月5日土曜日

新秋の信濃路



 夏じゅう平家物語と格闘していた信濃大町の山荘での生活も終え、昨日東京に戻ってきた。やはり信州から戻ってくると、東京の空気はどんよりとして蒸し暑く重い。
 もう信州の野はすっかり秋の佇まいで、じつに美しくどこか寂しげであった。上の写真は、信濃大町から山道を辿って長野のほうに少し行った山中の村、美麻(みあさ)のそば畑である。いまは蕎麦の真っ白い花が盛りで、その清潔な美しさは比類がない(私は一面のラベンダー畑だの、芝桜の丘、なんてのにはまるっきり何も感じないのだが、こういう風景には非常に感銘を受ける)。以前は蕎麦も輸入ものが多かったかと思うが、近年は信濃はどこもここも蕎麦畑が増えた。おそらく蕎麦の自給率もかなり改善されたことと推量される。これには、地粉での手打ち蕎麦店が夥しく増えたことや、蕎麦を食べる人の口が肥えて来たことも与って力があるのであろう。この白い花から香り豊かな信濃の蕎麦ができる。秋は新蕎麦の季節でもある。
 下の写真は、もう少し長野に近い山奥の鬼無里(きなさ)村の風景である。いままで鬼無里は音にのみ聞いて行ったことがなかったので、今回一人山道を運転して初めて見参。山奥だが、なかなか素敵なカフェなどもあって、よいところだった。その村の外れの道ばたでは、もうススキがさかんに穂を風に揺らせていた。ちょっと前までは、日本国中セイタカアワダチソウなんて外来植物が幅をきかせていたものだったが、最近はまた段々ともとのススキの野に回帰してきたような気がする。やはり秋はススキとアキアカネである。
 清爽な空気が、はや秋冷という感じになりつつある信濃を後に、東京にもどって、はやくも信州を懐かしんでいるところである。

2015年8月25日火曜日

自家製いちごジャム

八月の十日から十日間ばかり東京に戻り、猛暑と戦いながら、雑用をせっせと済ませ、また頼まれた講演なども終えて、ただちに信濃大町の家に戻ってきた。
 たった十日ほどの違いだったが、安曇野の早稲の田はもう黄色く色づきはじめていて、赤とんぼは飛び、ススキも出始めている。信州の冷涼な気候のなかでは、秋の訪れが早い。
 もう半袖半ズボンでは寒いので、秋の服装に変えたところである。
 ところで、この八月お盆前後になると、地元の農産物直売所にはいろいろと楽しいものが並ぶ。甘い甘いとうもろこしなどもその楽しみの一つだが、もう一つは、名残の小苺、とでもいうようなカワイイ小さな苺が、たくさん、それも驚くような廉価で売られるようになる。これを山のように買ってきて、いちごジャムを作るのもここでの楽しみである。
 洗ったり蔕をとったりする作業は大変だが、砂糖と赤ワインだけを入れてコトコトと煮る。途中アクをとることをこまめに、それで出来上がったのをガラス瓶に密封してすっかり冷えると、天然のペクチンが固まって、とてもおいしいジャムができる。
 ただいま、このジャムを毎朝たのしくトーストにのせて食べているところである。
 

2015年8月10日月曜日

僻村塾

きのう8月8日、白山市の白峰の奥にある、「僻村塾」というところまで講演にでかけた。これが、あっと驚くような山村僻陬の地で、僻村塾とは言い得て妙と感心をしたことである。現在は、池澤夏樹さんが塾長で、ひとつ気楽に話をしにきてくださいと頼まれ、『平家物語』についての講話と朗読をしてきた。こんな不便なところにも拘らず、熱心な聴衆が五十人くらいも集まって下さったろうか。終わってから、塾のフェロウがたのお手料理による、たいへんなご馳走が出た。ひとつひとつ、地元の食材を中心として、それはもう、じつにじつにじつにじつに美味極まるご馳走だった。料亭料理のようなものでなく、超絶的に洗練された家庭料理・郷土料理なのだが、そこにこそ、天下の美味は凝集しているのだ、とあらためて痛感するような素晴らしいお料理であった。なかでも、ほっそりとした若鮎を囲炉裏の炭火で焼いた焼き鮎のまあ、うまかったこと。骨などないような柔らかさ、しかし、しっかりと鮎の香味があって、ああ、ああ、思い出すさえ垂涎というものである。
 よい思い出を得て、きょう、酷暑のなかを信濃大町の山荘翠風居まで帰ってきたら、その涼しいことは、またなによりの妙薬であった。

2015年7月23日木曜日

リベルタンゴ・デュエット

ちょっと記述が後先になって恐縮ながら、さる7月18日のライブ演奏のことを書いておかなくてはなるまい。
 あのオペラ『MABOROSI』を作曲された二宮玲子さんが、こたびヴァイオリンの安田紀生子さん、ソプラノの賀川ゆう子さんと、三人してタンゴ・マドンナというタンゴバンドを組み、その本格的な旗揚げ公演に先立って、試演会とでもいうべきライブを開催した。荻窪にある「With 遊」という小ぢんまりとしたライブハウスで、客席には三十人ほどしか入らないところではあったが、午後二時からと四時からの、二回公演をした。
 二宮さんとは、引き続き作詩と作曲という立場で、お付き合いを願っている、まあ「戦友」であるが、こたびは、まずアストル・ピアソラの名曲『リベルタンゴ』に詩を書いてほしいという、かなり破天荒なご依頼であった。さっそくこの作詩の難しい現代タンゴに、破れた恋の苦しみを歌った詩をつけて、送ったところ、これを二重唱に編曲したので、ぜひ客演してその初演につきあってほしいという、さらに破天荒なるご依頼を頂戴した。ところがこれが非常に難しい曲で、当初はとても無理ではないかと思ったのだが、何事も練習練習、小泉信三先生の言葉の通り「練習は不可能を可能にす」というわけで、なんとか本番に間に合わせたところ、大変ご好評をいただいた。同時に、先日の金沢で初演した『いまひとたび』(高木東六作曲・林 望作詩)も、こたびはピアノとヴァイオリン伴奏編曲版の初演として(二宮玲子編曲)、自分がガルデルにでもなったような心持ちで、すこぶるタンゴらしく歌ったのだが、歌っていてとても楽しかった。
 写真は、『リベルタンゴ』を、賀川さんとデュエットしているところのスナップ。このユニットの旗揚げ本公演は、11月22日に予定されているので、またぜひお運びを願うこと然り(詳細は決まり次第、またHPに告知します)。
 

2015年7月22日水曜日

山林に隠棲中

次から次へと迫り来る締め切りやら、コンサートやら、講演やら、東京にいての仕事をやっと片付けて、信州の山荘にやってきている。
 東京が猛暑でも、こちらは28度くらいの快適な気候で、夜は20度かそこらの、まことにひんやりとした空気になる。
 冷房をかけずに楽々と眠れるのは、ほんとうに快適で、こういう環境にあっては、脳みその働きも百倍というものである。
 現在は、もっぱら『謹訳平家物語』の書き上げに専念中で、これをなんとか夏の終わりまでに仕上げてしまいたいと思うのだが、いざやってみると、仏教語、儒教語彙、和歌・漢詩文など、さまざまな引きごとなどに妨げられて、そうスイスイとも書き進め得ない。
 しかしながら、着実に一歩ずつ進めていくならば、やがて終わりも見えてくるであろう。源氏物語のような解釈上の困難さは、平家物語には存在しない。ただ、原典が持っている語り芸としての生き生きとした語り口を、どうやって現代語に活かすか、すなわち、いかに語り物らしい文体(私は仮にこれを「講釈体」と名づけている)で訳すか、鍵はそこにかかっている。

2015年5月22日金曜日

戦前・戦後、歌の教室

いつのまにか月日はたち、あれよあれよという間に一年はもう半分近くまで来てしまいました。
さるところ、5月20日に、金沢アートホールを会場として、同地のドクター北山吉明先生(テノール)と私(バリトン)と二人コンサートをやって来ました。チケット2000円の代金はチャリティとして寄付させていただきます。
これは去年の二人コンサートが好評で、またやってほしいというお声にお応えしての第二回でありましたが、伴奏も前回と同じく、中田佳珠(かず)さんと五味こずえさん。
ちょうど今年は戦後七十年の記念年になるということで、戦前戦中戦後の歌の世界を見渡しての、社会の変遷と歌の歴史を概観してみようという企画を立てました。
歌の学校と称して、途中さまざまな「歌講釈」を挟んでの演奏会で、プログラムは下記のとおりの全二十三曲、これを北山吉明先生と私と、二人で熱唱してきました。お客さまには概ね喜んでいただけたようで、ホッとしています(客席には、私の愛してやまない、東京早稲田『八幡鮨』の皆さんが、お店を臨時休業にしてはるばると金沢まで、五人揃って応援にきてくれました。昔の歌が多かったこともあって、楽しんでいただけたようです)。
*マークは、テノール(北山)とバリトン(林)の二重唱
名前を記したものはそれぞれの独唱。

第一時限 童謡の戦前戦後
 朧月夜 (大正13年 高野辰之作詩 岡野貞一作曲 上田真樹編曲)*
 汽車ポッポ(昭和2年、本居長世作詩作曲)
 花かげ (昭和6年 大村主計作詩 豊田義一作曲
 お猿のかごや (昭和13年 山上武夫作詩 海沼實作曲
 船頭さん(昭和16年 武内俊子作詩(峰田明彦改作) 河村光陽作曲
 里の秋 (昭和20年 斎藤信夫作詩 海沼實作曲、中田佳珠編曲)*
 蛙の笛 (昭和21年 齋藤信夫作詩 海沼實作曲)*

第二時限 戦中の歌、戦後の歌
 海ゆかば (昭和8年、大伴家持原歌 東儀季芳作曲 高木雅老編曲
 海ゆかば (昭和12年、大伴家持原歌 信時潔作曲
 月月火水木金金 (昭和15年 高橋俊策作詩 江口夜詩作曲
 空の神兵 (昭和17年 梅木三郎作詩 高木東六作曲
 いまひとたび (原曲昭和21年 藤浦洸作詩、高木東六作曲『古い港』、改題新詩は2015年林望作詩、初演)林
 水色のワルツ (昭和21年作曲、25年発売 藤浦洸作詩 高木東六作曲)北山
 憧れのハワイ航路 (昭和23年 石本美由起作詩 江口夜詩作曲
 山の吊橋 (昭和34年m横井弘作詩  吉田矢健治作曲)

第三時限 戦前から戦後への芸術歌曲 
 丹澤 (昭和10年 清水重道作詩 信時潔作曲)北山
 お菓子と娘 (昭和3年 西条八十作詩 橋本国彦作曲)北山
 落葉松 (昭和47年 野上彰作詩 小林秀雄作曲)林
 くちなし (昭和46年 高野喜久雄作詩 高田三郎作曲)林
 さよならはいわないで (鶴岡千代子作詩 中田喜直作曲)北山
 翼 (昭和57年 武満徹作詩・作曲)林
 夏は来ぬ (明治29年 佐佐木信綱作詩 小山作之助作曲 上田真樹編曲)*
アンコール
 花 (明治33年 武島羽衣作詩 滝廉太郎作曲)*

2015年4月23日木曜日

謹訳平家物語、リリース

いよいよ新年度となり、だんだん初夏の佇まいとなってきました。
さるところ、昨年来書き進めておりました『謹訳平家物語』第一巻が、無事刊行となりました。全四巻の予定ですが、来年の今頃までには全巻完結という予定で現在もその先を書き進めております。
 ここもと、その書影をお目にかけます。
 『しのびねしふ』に引き続き、『謹訳平家』も、太田徹也先生が装訂ならびに本文等のデザインをすべて担当してくださいました。
 あたかも、巻物の本文を読むような、とでもいったらいいような本文デザインも素敵ですが、この装訂デザインを御覧ください。実物は渋い金表紙で、そこにひとすじの色が入ります。これが巻のテーマカラーとでもいう感じでしょうか。帯の下方のローマ字表記は「Qinyacu Feiqe Monogatari」と、いわゆる「天草本平家物語」のポルトガル式ローマ字を用いてあります。
 今回は、『源氏物語』とはまったく違う文体で書きました。源氏は淡々と物語るというスタイルですが、平家は、講釈師などの芸能者が朗々と語るような、いっしゅ芸能的文体を採用しています。原典の文体がまったく違うのに、同じような訳文であれば、それはおかしいと私は思っています。
 まもなく書店の店頭に並びますので、どうぞ実際に手にとって御覧ください。今回も造本はコデックス方式ですので、フラストレーションなくページが開きます。単に読書としての楽しみだけでなく、朗読会や読み聞かせなどのテキストとして最適なものと思っております。どうぞ皆様よろしくご購読のほど、お願い申し上げます。

2015年3月31日火曜日

観世会館さよなら公演

またまたのご無沙汰で申し訳ありません。
『謹訳平家物語』の執筆や校正のためあくせくしております。

さて、この三月いっぱいで、43年間に亘って観世流能楽の本拠地として親しまれてきた、渋谷区松濤の観世会館、通称観世能楽堂が、建築の耐震基準上の問題などがあって、閉館することになった。まもなく、この想い出深い能楽堂は取り壊されて、銀座に新しく建築中の多目的ビルの地下に移転することになっている。
その最後の時を記念して、このほど、「さよなら公演」が三月二十五日から三十日にかけて、6公演行われた。
私もそのなかの一公演に解説を書かせていただいたのだが(『松風』と『土蜘蛛』)、幸いに、二十六世宗家の観世清和師のシテを勤められる能はすべて拝見することができた。
二十八日の『正尊(しょうぞん)』では、清和師は義経の刺客正尊を演じて重々しい演技を披露されたが、能楽堂のさよなら公演とあって、気鋭の若手観世流能役者がぞろりと八人、立衆として出演し、義経がたの武者と切り結ぶ大立ち回りを、にぎにぎしく演じ切ったのは面白かった。トンボ返りや、「仏倒れ」といって硬直したまま後ろ向きにドカーンと倒れるスリリングな型を存分に堪能したことであった。
二十九日は、『道成寺』。この難曲をば、清和師は悠々たる風格と余裕で演じ、その規矩準縄で揺らぎのない型の運びといい、内面的な理解の深さといい、また後の段の蛇体の女の怨念の凄まじさといい、その声の凛とした豊かさといい、現代における最高の『道成寺』を見たという、得も言われぬ昂奮を覚えた。能楽堂への最後の餞として、まことにふさわしい見事な演能であった。
さらに三十日の、ラストのラストの日は、翁付き『鶴亀』という珍しい演能で、これは翁の儀式的な能のあとそのままめでたい祝言曲の極致ともいうべき『鶴亀』を演じ、さらにそのあと『福の神』という、これまた祝言性に満ちた狂言を続ける。そこまで二時間以上ぶっ通しで演ずるもので、とくにその三曲ともに休みなく勤める囃子方にとっては、並大抵のことではない演式である。
清和師の翁は、清雅にしてまた神韻縹渺、まさに神さびた趣が横溢し、見ていて背筋がピンと伸びる思いであった。そのあとは家元の実弟観世芳伸師のシテの鶴亀と続き、囃子は亀井広忠師の大鼓、大倉源次郎師の小鼓が、なかんずく気合も十分で一座を終始ぐっと支えている感じがした。
なにもかも終わってから、能楽堂の外の庭で、鏡開きが挙行され、そこで清和師が流儀を代表して謝辞を述べられたところが、この写真である。画面やや左方、スマホを持った白い右手の上あたりでマイクを持っておられるのが宗家清和師である。

ほんとうに良い能を見せていただきました。
観世流のますますの弥栄をお祈り申し上げます。
感謝。

2015年2月18日水曜日

Bandits

あっというまに月日が経って、もう二月も後半になってしまいました。
相変わらず、バタバタと忙しくしています。
現在は、『謹訳平家物語』の執筆に力を注いでいますが、これは全部で四巻の予定で、その第一巻は、原典の巻1から巻3までの三巻を収めています。今回のは、ほんとうに掛け値なしの「朗読台本」という文体で書いています。たぶん、遅くとも5月には第一巻が刊行になると思いますが、早ければ4月中に間に合うかもしれないと思っています。
さて、そんな日常のなかの楽しみは、いつもながら、隣にすんでいるアメリカン・ボーイズ(孫息子)たちで、毎日毎日疾風のごとくやってきては、さんざんに食べたり飲んだり、遊んだり、そして部屋中をカオス状態にして、また疾風のごとく、さっと引き上げていきます。
ある朝のこと、私たちの食堂のテーブルの上に、こんな紙が置かれていました。
 We got your bread, BANDITS(サイン)
これは、孫どもの隊長、長男のタイタス(六歳)が書いて置いていったもので、どうやら昨夜焼き上げてそこに置いておいたパンを、朝一番にやってきてさっさと持って行ってしまったと見えます。なにしろよく食べるので、一斤くらいのパンは、あっという間にかれらの胃袋に消えてしまい、私どもはまた一から焼きなおすという日々です。このBANDITSというのは「盗賊」というほどの意味です。
どうやら、かわいい三人の盗賊が我が食堂を襲撃して、そこに置いてあった焼きたての美味しいパンを強奪していったらしいのでした。はははは。朝起きて、おもわず微笑まざるを得ない、こういうことが人生の晩節には何より楽しいできごとかもしれません。その意味で幸いな人生を、私は感謝しているところです。

2015年1月19日月曜日

しのびねしふ


 第一句集、「しのびねしふ」(忍び音集)が出ます。
 目下のところ、『謹訳平家物語』(当初は『活訳平家物語』という題名にしようと思っておりましたが、謹訳、ということで統一することにいたしました。同時に、雑誌『観世』には、『謹訳能の本』を連載中でもありますし・・・)の執筆に全精力を傾けているところですが、さるなかにも、いままで四十年ほどに亘って作ってきた俳句のなかから、四百句を選んで句集を出すことにいたしました。それがここもとお目にかけます、『しのびねしふ』です。「忍び音」というのは、ホトトギスやウグイスが、まだ鳴き慣れぬころに、ひそやかな声で試しに鳴くことをいいます。じつは、もう長いこと、私は手元に「しのびねしふ」と題したファイルを作って、和歌、詩、俳句、訳詩、俳文などを興の至るに従って書きつけてまいりました。いままでまったく非公開で、ただ独り面白がっていたに過ぎないのですが、いつかはそのなかの俳句を選んで句集をつくろうと思っていました。それは還暦の時にと思っていたところ、還暦のときは『謹訳源氏物語』にかかりきりとなって、その余裕もなかったために、果たせませんでした。しかし、それも完成し、主宰する句会「夕星俳座(ゆふづつはいざ)」もそろそろ満四年を迎えようかという今、やっと実現に及んだという次第です。刊行は祥伝社が引き受けてくれました。
 そうして、ご覧のように、世の中の句集のイメージを覆すような、まことに素敵な書姿をまとった本として世に出ることになりました。この装訂は、現代デザイン界の巨匠、太田徹也先生がお引き受けくださいました。実際に手にとってご覧になるとわかりますが、「手に持つことの快楽、所持する嬉しさ、Objectとしての『書物』の楽しさ」を実感させてくれる、素晴らしいデザインとなりました。私自身も太田先生のデザインの「力」に、あらためて感服しているところです。
 大手の書店、またアマゾンなどでも、ぜひお買い求めくださいますよう、お願いを申し上げる次第です。定価は税抜きで1800円でございます。
 「宇虚人」は、私の俳号です。その意味は、本書のなかに書いてございますので、ここでは述べないことに致します。
 まもなく、二月の頭には店頭に並ぶことと思います。ぜひ、店頭でご覧くださいませ。
 アマゾンでは次のところを御覧ください
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=カタカナ&url=search-alias%3Daps&field-keywords=しのびねしふ

2015年1月3日土曜日

2015年新春のご挨拶


 まずは、

 新年あけましておめでとうございます。

 またもや、超過密スケジュールに追いまくられているうちに、すっかりアップデートをサボっておりまして、申し訳ありませんでした。
 おかげさまで、無事越年いたし、元気にお正月を過ごしています。
 ことしは、なにはともあれ、『活訳平家物語』の執筆と刊行に明け暮れるという予定で、現在もその書き下ろしに邁進しております。たぶん、4月には第一巻が刊行できるだろうと考えていますが、なにぶんともまだ書き上がっておりませんので、これからねじり鉢巻というところです。
 そんなわけで、みなさまご恒例の、アカシロ歌合戦とやらいう番組も一切見ることなく(しかし、見たくもないねえ、あんな馬鹿らしい番組は)ひたすら書斎に籠城して平家物語と対話するうちに年が明けました。
 正月元旦といっても、今は何もせず、ただ何もなくてもつまらないので、今年はオイシックスという会社からお節セット(ただし冷凍で届く)を取り寄せて、アメリカ人の婿殿に日本のお節料理とはなにかを味わわせるセレモニーだけはいたしました。上の写真がそのお節三段重のセットで、ほんのお印ばかりの量の、しかしおびただしい種類のおせち料理が詰めあわされています。コチコチに凍った冷凍便で届くので、大晦日から解凍を試みたのですが、解けず、結局電子レンジでチンするというお粗末。ただし、自分では、鶏ガラ鰹出汁の林家伝統の雑煮だけは作りました。
 むかし両親の健在であった時分には、兄弟眷属みな料理など持ち寄って盛大に賑やかに正月を祝い、お正月は楽しい思い出となっていますが、今はまったく様変わりです。林家では、「芋玉」というのと、「黒豆」は、必ず作るお節料理だったのですが、今年はそれも作らずに終わりました。
 元旦は、ひたすらひたすら年賀状の返事書きに明け暮れて、他のことはなにもできません。
 これであっという間にお正月も終わり、松も取れ、また忙しく暮らしているうちに、一年など、瞬く間に過ぎるのでありましょう。年々歳々時間の進みは早くなるような気がします。
 今年は5月20日に金沢アートホールで、北山吉明先生(外科医でテノール歌手)と二回目のジョイント・チャリティ・コンサートを開催の予定で、そのための練習などにこれから本腰を入れます。今年は戦後七十年にちなんで、「戦前の歌、戦後の歌」というテーマで、童謡・歌謡曲・歌曲さまざま熱唱いたします。
 ともあれ、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。