2011年11月30日水曜日

父死す

 二十九日未明、父林雄二郎が忽焉として世を去った。享年九十五歳。死ぬ一時間前まで元気に歩いていたが、その直後にまるで羽化登仙か、禅侶の示寂かというように、苦しみもせず、痛みもなく、ただ微笑裡に霞の彼方へ去った、とでも評したらよかろうか。わが父ながら、天晴れ見事な大往生であった。
 この父は、東京工大の電気化学科を卒業した技術者であったが、戦時中は軍属としてジャワに駐在し、戦後、帰国して経済安定本部を振り出しに、政府の経済計画畑を歩き、いわゆる所得倍増計画に参画して、戦後の復興に力を尽した。フランスに留学して計画経済を学び、官僚としては経済企画庁経済研究所長を務めたが、やがて転じて東京工大に社会工学科を創始してその初代の教授となった。時に、梅棹忠夫、小松左京、加藤秀俊らと携えて社会の未来予測の方法について考え、日本未来学会を樹立するなど、世には未来学者として知られた。今は普通に使われている「情報化社会」という言葉はこの父が創った造語である。さらに転じて、トヨタ財団創立の専務理事、東京情報大学創立の初代学長、さらに日本財団特別顧問などを歴任して、八十歳を過ぎてもなお矍鑠としてフィランソロピーの確立のために先頭に立って働いていたのであった。さすがに齢九十を越えてはすべての公職を退いて悠々自適、ただ散歩と読書のみを楽しみに余生を過した。
 ただ、その昔、もう五十年ほどの以前から、父は、「将来は日本も国際化しなくては立ち行かぬ」「やがて都市は二十四時間眠らないようになる」「主要な都市には地下に大きな町ができる」「手のひらに乗るような小さな通信機が普及してどこでもだれでも通話できるようになる」など、いつも私どもに教え諭したが、果たしてそれはすべてその通りになった。
 この父は、私ども子供にとっては、なかなか良い父親であった。第一に、私どもがどういう道に進もうとも自由だといって、一切の掣肘を加えることがなかったばかりか、私が慶応義塾の国文科に進んだ時、「文学も大いに結構だが、どうせやるならとことん勉強して博士課程まで修めるように」と言って、三十歳になるまで何も言わずに養ってくれたのは、青年時代に学問の基礎を学ぶためには、なによりの親の恩であった。いわゆる厳父というのとは違って、自由闊達な父であった。母を先立たせてからは、もっぱら私ども次男一家とともに過し、晩年は、父の生活は、なにもかも私の妻が面倒を見ていたので、父は私の妻をさして「これが私の母親だ」と、嬉しそうに話し、妻の言うことはよく聞いてくれた。そして今生の最後に言葉を交わしたのも、この妻とも子である。
 その最晩年まで含め、総じて、まことに良き父、愛すべき男であった。
 写真は、いまから二十五年前、私どもがイギリス留学中に、ヨーロッパの学会へ出たついでにロンドンまで遊びにきたときのスナップである。大英図書館の近くの道を歩いているところで、後ろにいるのが父。そしてその前に、私の息子大地と、娘春菜が写っている。この二人の孫も今ではすっかり大人になって独立し、父からみれば曾孫に当る子供も四人得た。懐かしい写真である。
 冥福を祈る。合掌。