2010年5月11日火曜日

「ん」と山口謡司君

たとえば、「新さん」という人がいたとして、これを日本人は、なんなく「しんさん」と発音するのだが、欧米人には、この発音は案外とむずかしい、ということをご存じだろうか。すなわち、SHINSAN とローマ字で表記したときに、これをイギリス人に発音させたら、おそらく「シンヌ・サンヌ」に近い発音になるだろう。日本語の「ん」とローマ字の「n」とは、じつはまったく等価ではないのである。それどころか、「ん」は、表われてくる前後の文字・発音によって、いくつにもわかれる数多い音の集合なのだ。そうして、ここに表われている「新さん」の「ん」は、子音とも母音とも言えないもので、いわば、その中間的な存在なのであった。こういうことを詳しく論じたのがこの本で、大昔から日本語の「ん」という発音には、文字でどう書くかという大きな、そして解決しがたい問題が横たわっていたのである。なぜこの本をここにとりあげるかというと、この著者の山口謡司君は、私の古い門人で、かれがまだ大学院生のころから、その後はイギリスで、また東洋文庫で、ずっと書誌学の仕事をともにやってきた間柄だからである。彼は面白い人で、もともとは九州のさる大名の末裔であり、しかも、中国文学中国哲学などの専攻であり、なおかつ、フランスでは高名な画家でもある。私の多くの小説で挿し絵を担当し、また『東京坊ちゃん』では装訂も彼にやってもらった。学者で作家で画家、そういう意味でも、私の生き方と重なるところが多いのである。ぜひご購読をお勧めする所以である。